
東京都青梅(おうめ)に青梅赤塚不二夫会館があります。
開館10周年記念の今年11月初旬に「イヤミのシェー!!展」が開催されていました。
赤塚不二夫は、小さい頃を新潟で過ごしており、
私と同郷だという近親感があり、見に行ってきました。
青梅宿・銀幕街道の真ん中にこの会館があります。
レトロな街並みで一瞬、昭和の初期に逆戻りしたような錯覚にとらわれます。
ところで、漫画好きなら、『トキワ荘』という名前はご存じだと思います。
1952年12月6日に、東京都豊島区椎名町5丁目2253番地に棟上げされた
木造モルタル2階建てのアパートが、『トキワ荘』です。
手塚治虫が最初に入居し、その後、才能ある漫画家たちが多く集まった
アパートとして有名になりました。

手塚治虫(鉄腕アトム、ジャングル大帝、リボンの騎士)
石森章太郎(仮面ライダー、サイボーグ009)
藤子不二雄(オバケのQ太郎、ドラエモン)
つのだじろう(空手バカ一代、うしろの百太郎)
園山俊二(ペエスケ、ギャートルズ、花の係長)
赤塚不二夫(おそ松くん、ひみつのアッコちゃん、天才バカボン)
寺田ヒロオ(サラリーマン金太郎)
水野英子(星のたてごと、ファイヤー)

トキワ荘に入居するには、
(1)『漫画少年』で寺田が担当していた投稿欄「漫画つうしんぼ」の中で
優秀な成績を収めていること。
(2)協調性があること。
(3)最低限、プロのアシスタントが務まったり、穴埋め原稿が描けたり
する程度の技量には達していること。
(4)本当に良い漫画を描きたいという強い意志を持っていること。
といった基準で厳格な事前審査が行われていたと言われています。
赤塚不二夫の著書『酒とバカの日々』
(このタイトルは、当時アンディーウィリアムスらが歌っていた
ヒット曲の題名「酒とバラの日々」をパロディー化したものだと思います)
を読むと、当時の生活ぶりが偲ばれます。
同時に、いかに真剣に漫画と取り組んでいたかが分かります。
赤塚は、化学薬品工場に勤め、夜になると二人(石森、赤塚)で
漫画を描いており、それでも毎日、一個のギャグをノートに書かないと
寝なかったと言われています。『まんが トキワ荘物語』の中に、
赤塚の次のような言葉が載っています。
「ぼくがトキワ荘に住んだころは、まだまんがでメシを食える状態ではなかった。
机もなんにもない部屋で売れないまんがをセッセと毎日かいていた。・・・
しかし、意外とのんびりしていたのは、性格からだけではない。トキワ荘はまんが
の宝庫だった。生きたまんがの参考書がゴロゴロいるのだ。
アイデアに絵にまんがのことでいきづまると寺田、石森、藤子と先輩の部屋へ
おしかけ相談した。毎夜集まって夜明けまでまんがを論じ合った。そのころ
見ききしたことが今日のぼくに大きくプラスしている。・・・・」
当時の仲間の存在がいかに大きかったかを窺わせます。
石森章太郎の著書『トキワ荘の青春』の中で、急ぎの穴埋め(漫画)原稿の
作成を石森が赤塚にやらせている場面が書かれています。
赤塚が、ギャグ漫画のレールを走り出したきっかけとなったものです。
お互い、切磋琢磨しながらの中での友情の素晴らしさを感じます。
それにしても、「ひみつのアッコちゃん」を発表して数年後には
「天才バカボン」が作られています。どちらも、赤塚不二夫という
一人の漫画家によって作られていることに驚愕します。
しかし、彼らの日頃の生活ぶりをみると、
何の不思議もないのかもしれません。描きたいもの(アイデア)が
次々に湧いてくるのでしょう。
青梅赤塚不二夫会館では、小さな部屋いっぱいに置かれた
赤塚不二夫の作品に囲まれ、ものすごく楽しい気分を満喫できました。
人は、たとえ健康な時であっても、一人では何もできないものです。
社会の仕組みを借り、眼に見えない人たちの働きによって、
毎日の生活が成り立っています。だから、そういった人達のお世話になりながら、
しかし幾ばくかの闘志を持って暮らすべきなんだなあとあらためて感じました。
取締役 管理本部副本部長 大隅 晃