それは新婚時代の甘さを吹っ飛ばすような体験であった。
当時住んでいた家内の実家は、
学生運動が盛んな大学のすぐ近くにあり、
周辺では連日のように集会やデモが繰り返されていた。
どの商店もシャッターを下ろし
女性や子供は外に出られないほどだった。
1969年1月18日、機動隊小隊長だった私は午前5時に出勤し、
重い装備を身につけ、真っ暗闇の中、
全共闘学生に占拠されている東大に向けて出動した。
その頃、全国の国公立、私立大学中には、
授業料値上げ反対、学園民主化を求め学園紛争が巻き起こっていた。
東大でも。
医学部の学生がインター制度に代わる
登録制度に反対して紛争を展開し、
その動きが激化して、一部教室のバリケード封鎖から、
安田講堂の完全封鎖までにエスカレートしていた。
その日、派遣された機動隊員は総勢8500名。
まずは医学部関連施設の封鎖を解き、
午後1時から本丸の安田講堂の学生解除に着手した。
正面突破を命じられたのは、
当時各種の警備で抜群の成果を上げていたK中隊。
私の中隊は側面通用口を担当した。
.K中隊には屋上から雨のように火炎瓶が投げられ、
ときにはホームベース大の敷石も飛んできた。
それに対して機動隊は、放水や催涙弾で応戦したが、
全共闘学生たちは全くひるむ様子を見せなかった。
私の所属部隊も講堂内までは進めたものの、バリケードに阻まれ
4時間かけても1メートルすら進めない状況が続いた。
午後5時40分、作業中止命令。
味方の放水で頭から編み上げ靴の中までびっしょり、
目は催涙ガスを受けしょぼしょぼ。
朝から何も食べていなかったにも関わらず輸送車に戻った時には、
あまりの疲れに夕食弁当も喉を通らないほどだった。
その後、暖房のない輸送車の中でびしょ濡れのまま毛布にくるまり、
仲間同士で身体を寄せ合って暖をとりながら眠りに就いた。
厳寒の夜のことである。
19日午前6時30分、まだ夜が明けないうちに作業が開始された。
放水にはヘリコプターも出動し、
火炎瓶避けにトロイの木馬をヒントしたやぐら囲いも作った。
午後3時50分、2日間に及んだ封鎖解除の警備は、
屋上にいた90人の学生を検挙し、解決を見た。
もしあの時、側面から講堂に入ったきり、
立ち往生している私たちの部隊に、
1本の火炎瓶でも投げ込まれていたらと思うと今でも背筋が寒くなる。
警察には人命を第一に尊重する高い意識があるが、
もしかしたら彼ら学生にも、
少なからずルールのようなものが存在したのかもしれない。
あれ以来、さまざまな困難と向き合ってきたが、
無事に乗り越えることができたのは、この経験があったからだと思う。
監査役 千葉 久公