『林芙美子記念館』で想うこと

 新宿駅から都営大江戸線で5つ目の中井駅で降り、7、8分
歩いたところに、『生きることがすなわち書くことだった、
早熟の女流作家という宿命を生きた』“林芙美子記念館”が
あります。

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代表作『放浪記』『浮雲』で知られる作家・林芙美子が
昭和16年から、昭和26年(1951年)6月28日にその生涯を
閉じるまで住んでいた家です。

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芙美子の想いが込められた書斎、台所、風呂場 等々
落ち着きのある住まいとなっています。庭一面に孟宗竹
が植えられていたそうですが、今は書斎の前に少しだけ
その面影が残っています。それでも、物凄く落ち着いた
気持ちになれます。決して華美ではなく広さも大きくは
ないのですが、しっとりと落ち着いた雰囲気です。
書斎は、納戸として作られた部屋を改造して使うように
なったものだそうですが、部屋の中から、半障子を通して
廊下越しに見える小庭の風情など趣向が凝らされています。

息子・泰(やすし)と朝食をとる芙美子の写真からは当時の
庭の様子が見てとれます。

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49歳の時に心臓麻痺(過労)で急逝したのですが、
自宅で行われた告別式の席で、葬儀委員長の川端康成は、
『故人は、文学的生命を保つため、他に対して、時には
ひどいこともしたのでありますが、しかし後二、三時間
もすれば、故人は灰となってしまいます。死は一切の
罪悪を消滅させますから、どうか故人を許して貰いたい
と思います』 と弔辞の中で述べたという。
作家仲間には、それでも芙美子を許せないと言った人もいた
ようですから、いかに破天荒な一生だったかが窺えます。

親交の深かった壷井栄と平林たい子ですら「林芙美子の思い出」
という対談で次のように述べています。

壷井「(芙美子は)よく泣きましたね」
平林「涙もろかったですね」
壷井「そういうと悪いけど、安直に泣けた人ね」
平林「こんなときには泣くに限るといって泣いた。
泣いてごまかすこともあった」
壷井「天真爛漫といえば天真爛漫、おおげさといえば大げさ。
泣いた方が得だということもあったでしょうけど」
平林「実にいい場面で泣くんです。芸術家のひとつのタイプと
いえるかもしれない」

芙美子の数少ない理解者のふたりにして、これだから。
この対談部分だけで芙美子の性格というか生き方がわかって
しまいそうです。
『花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき』
人気作家となり、多くの仕事を抱えていた芙美子のもとには、
原稿の受け取りや執筆依頼の客が毎日何人も訪れていました。

門を入ると玄関までは踏み石の段々になっており、当時の面影
が残っています。息子・泰の笑い声が室内から今にも聞こえて
きそうです。

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それにしても、この建物は何と落ち着いた空間なのでしょうか。
芙美子は、屋敷を建てる時、京都の民家を見学に行ったり、
材木を見に行きました。そのこだわりがあちこちに感じられます。
『浮雲』を読み直したら、もう一度訪れてみようと思っています。

取締役 管理本部副本部長 大隅 晃