祖母と母

私の母は昭和4年、石川県金沢市の生まれです。
生後3ヶ月の時に父親を肺炎で亡くし、
芸者さんの置屋を営んでいた父方の姉、
つまり伯母に当たる人のところに祖母は母と身を寄せ育ちました。

伯母夫婦には子供がいなかったので、
「芳子やーぃ、硬い子や、石なの孫やぁ。」(金沢弁)と、
とても可愛がってくれたそうです。

毎日、♪チントンシャン♪と三味線のお稽古の音を聞き、
夕方になると芸者さんや舞妓さんが
綺麗に着飾ってお座敷に出掛けるのを見送るのが日課。

昭和9年に置屋をたたみ伯父が鉄工所を開業し、
日本中がひもじい時代に私立の高等女学院まで出してくれたと、
おジジとおババ(金沢弁で伯父さん、伯母さん)への
感謝の言葉を母は事ことあるごと口にしたものです。

卒業後、進駐軍に接収されていた白雲桜ホテルに勤めるのですが、
ハローとサンキューが言えれば何とかなったそうです。
蝶よ花よの箱入りお嬢がここで生まれて初めて世界に触れ、
もっと広いところに飛び出したいと決意し、
(怖いもの知らずにも程がある) 周囲の反対を押し切って
神奈川の従兄弟を頼って単身上京。

横浜はすごく活気があり、母は海軍将校のハウジングで
ハウスメイドをしながら闇市でたっぷり稼いで(時効)、
小さいながらも六角橋に家を買い、
祖母と曾祖母を田舎から呼び寄せ、
親子三代で暮らせるようになった頃、
将校の家に出入りしていた通信兵の父と出会い結婚したのです。
母が二十歳、父が二十三歳。
異口同音のおのろけは、「燃えるような恋だった。」です。

その後、渡米することになった時のことを、
祖母から何回も何回も聞かされました。
あんなに寂しいと思ったことはなかった。
出航する船にテープを投げて、
テープが切れてもなお手放せなくて、
どんどん小さくなって水平線に船が消えても立ち去れずにいた。

海に身を投げようかと山下公園のベンチで泣いていたら
見知らぬアメリカ人のおばあさんが言葉も通じないのに
隣にきて座り、夜が明けて涙が涸れるまで
ずっと手を握っていてくれたと。
その人がいたから、やっとの思いでもなんとか立ち上がって
家にたどり着けたと。

幼い私はその時は気づきませんでしたが、
祖母にしても小姑に当たる人の世話になりながら母を育てた事が、
その思いが、今は分かります。
祖母も母も、必死で、そして、たくましく生きました。

ご先祖様に『乾杯!』
そして、縁あって助けてくれた方々すべてに『感謝!』

米軍事業部 係長 Y. M.